(6)シムラ デリーの北西部にある高原都市
本文へジャンプ 2006年02月16日、17日 
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シムラ


インドのSHIMLA(シムラ、シムラーともいう)は、標高2150〜2300m(トイ・トレイン駅は2215m)にある町だ。人口10万人。
町々、家々をつづら折りの道が繋ぐ。写真下。
Shimlaでは日本人に遇わなかった。しかし、ニューデリーよりもジロジロと見られなかったのは、少数だがチベット系らしき人が町を歩いているからだろう。
滞在した間、物乞いに会ったのも2/16夜のモールでの一人だけだ。そんな意味では特異な町なのかもしれない。坂が急なのでリキシャ、オートリキシャも無い。
風光明媚で涼しいので今は新婚旅行のメッカとなっている。昔の東京からの新婚旅行先は熱海、大阪なら南紀だった。今のデリーならシムラだ。
町はインド大地側(南側)の斜面を向いて建てられている。(山頂を挟んだ反対側はヒマラヤ側)
また、メインロードは地形的に広く作ることの出来る尾根付近にある。右上に見える塔はキリスト協会でその左側に広場(ザ、リッジと呼ばれる)と繁華街(モール)が続く。



町中の山側動画1(尾根道山頂側)

町中の麓側動画2(尾根道麓側)

山側の風景 動画

このページの最下部にいくつかの動画を纏めています。



動画7は下写真の真ん中辺りの道を車で走っているときだ。

それにしても、ここに住んでいる大勢の人々は、何を職業としているのだろう?


ヒマラヤ

シムラ市中心から車で1時間登ったところにあるKufri(2622m)の乗馬駅近くからのヒマラヤ。
右端近くの山がエベレスト(8844m)だという現地ホテルのインド人従業員がいた。姿は似ているけど、エベレストは前後左右に8000メートル級の峰々に囲まれているので角度的に見えるのか、そしてエベレストまで500キロ(実際には約1000km)は離れているからウソ臭いと思った。でも標高の合計は11000メートル以上あるからなあとも思った。

富士山は那須山から230kmあるが見えるというが、地球表面の距離と地球表面の落ち込みの関係は、距離が大きくなると2次関数的に落ち込みが大きくなる。

帰国後計算した。
地球で1000km離れている場所は、表面に78kmの落ち込みがある。エベレストの山頂はここの地下方向だったのだ。見える訳が無いのだ。

言われたときは信じた仕草をしたのだが、やはりウソだった。

ヒマラヤの8000メートル級の山々を横から見ていることになる。ちなみにエベレストといわれた山の姿は下の切り貼り写真で最右端の写真の木の上にある一番右の高い山だ。
下は150度くらいの角度の写真。
日本だと景色の良い所には、展望解説図があるのだが‥。

大きな写真は下写真をクリック。


最右端のヒマラヤ部分の明度を下げて山の姿を見易くした写真。エベレストというウソを教えられた山は雲の下の山。


上の写真と同じ場所からの動画

ヒマラヤ動3画



< 余談:見えない証明の計算式 >



地球の落ち込み量


地球の半径は6378km、エベレストの山頂までの円弧の距離(地図上の距離)1000km。
シムラからエベレストまでの地球表面高さの差=6378km-6378km*cos(1000km/6378km)=78.2km


ちなみに富士山と那須の場合は230kmなので表面の落ち込みは4.147kmになる。


那須の標高370mぐらいのところならば、3776mの富士山頂が見える計算になる。
下写真は、那須茶臼岳山頂(標高1915m)からの富士山


東京は富士山まで90kmなので東京湾からは635mより上の富士山が見える。


80kmの横浜は502mだ。
EXCELはラジアンの計算である。三角関数じゃなくて円弧関数なのだ。


一番遠くに見える場所からエベレスト山頂まで何キロか
これは三角関数で出来る。薄みどりは黄色部の式。ABは円の接線だから<BACは直角。

海抜0メートルからは336.0km山頂までの直線距離)離れていても見える。

直線ABの距離

東京タワー、スカイツリーは標高0メートルに建っていると仮定。(スカイツリーは2012.02追加)

円弧ADは何キロか?
arccosを使う。

円弧(地図上)ADの距離は、335.7km。

富士山219.415km、東京タワー65.173km、634mのスカイツリー89.926kmになる。ABとADは、エベレストの場合335.994km-335.684km=309.8m円弧(AD)のほうが短い。富士山では87m、東京タワーでは3m、スカイツリーは6m,。

ちなみに、450mのスカイツリー第2展望台からは75,672m先まで地面が見える。

富士山に登ると遠くが見え、富士山から東京タワーがよく見える理由

内円が地球、外円が東京タワーの高さを加えた円とする。東京タワーの位置がA、富士山の山頂がB、地球の中心がC。DはBから出てAで地球に接する線が外円にぶつかる点。
富士山頂からA点までの間にある東京タワーは全体が見える。東京タワーがA点から地球の表面を右下へ動くと仮定すると段々と下が見えなくなる。D点では東京タワーの先っぽだけが見える。

富士山の上に東京タワーを載せた場合、そのトップをE、地球との接点をFとした場合、EFはBDより短いか長いか?
答え:短い。BDはABに比べ65.2km長くなるが、EFは9.5kmしか長くならない。


上図でシムラとエベレストの距離(BD)がどのくらいだったら見えるか?

518kmだ。

下図の黄色セルは既知数値、薄緑は答。
エクセルの三角関数はラジアンなので、SIN、COS、TANの後ろは、全て(円弧AD/直線AC)になっている。


(上図はいろいろ加えられるが面倒なのでこれで終わる。)
上図のEXCE
東京タワーの場合などに数値を変えれば計算が出来る。

ちなみに、目の高さが1mmの蟻はADが112.94mで、1ミリの砂粒に乗り2mmになるとADは159.72mになる。背丈176センチの私は、ADが4738.2mだ。

ラジアンなんて久しぶりだ。サラリーマン時代は使わなかった。上の式を書くのに勉強した。
半径と円弧の長さで角度(比数値)が出る。当たり前だが上図でsin、cos、tan以下が同じ式になる。そんなことを高校や大学時代にやったのだろうが思い出せないなあ。


ご参考 ヒマラヤ地図 上はシムラの町がある山の頂での写真だ。

昔はエベレストの山頂より海水面が高かったという。現在、エベレストがとんがっているのは造山による隆起なのだが、惑星の生涯レベルのもっと大きな動きがある。
海の水は地中を構成する物質から出てきた水で、水が大量に地表に溜まるのは惑星の誕生から消滅までで、惑星が冷える時の一度だけ。それ以降は、地中にもともとあった水が徐々に出てきたり入ったりした。入った水は火山活動などで再度地表に出るが少ないという。地球に陸が出来たのが30億年前、陸が5%(現在は30%)だった7.5億年前から水が入り込み(入るほうが多くなった)、今から10〜15億年経つと海が無くなり、火星みたいな、昔は海があった星となるらしい。下は放送大学から。



地球内部の中心は金属なのだが、その周りのマントルから地表までに何層もの水が結晶化した層があるのだという。水が地中に入らないと、マグマによる地表への熱放出が無くなるので、地球は8億年以上前から氷の塊の世界らしい。水を含んでいる岩石は融点が低くなるので、マグマが出来て、対流で地球内部の熱を地表近くまで運べるのだ。
”昔は、ヒマラヤ山脈より高く、海が地表を覆っていたんだ”なんていうことを考えながら地球のてっぺんを見た。

<追記> 日経新聞 2013.06.23 電子版
青い地球、実は水が少ない? 生命誕生に絶妙の量

 地表の約7割が海に覆われた青い惑星、地球。人間にとって海水の量は膨大だが、地球の全重量に比べると0.02%にすぎない。宇宙の視点で見ると地球の海水量は少なく、謎が多い。


宇宙の視点で見ると地球の海水量は少ない
 宇宙でもっとも多い元素は水素で、酸素は3番目に多い。水素と酸素が反応して水ができるのも容易で「宇宙のどこにでも水はある」(東京大学の田近英一教授)。

 太陽系誕生時、太陽を中心に円盤状に回転するガスやちりなどが集まって微惑星ができ、さらに集まって惑星ができた。今の小惑星帯のあたりの「スノーライン」と呼ばれる境界の外側は太陽の熱があまり届かず大量の氷が存在し、木星や土星など巨大な氷の塊を持つ惑星が生まれた。

 内側は水蒸気になって水がほとんどなく、地球のような岩石型の惑星が生まれたと考えられる。だが、そのままだと今度は地球に水がまったくなくても不思議ではない。

 地球の海については諸説がある。標準的なシナリオは微惑星が集まり、火星サイズの天体が衝突する「ジャイアント・インパクト」を経て、46億年前に地球が誕生したときすでに海があったというもの。主な微惑星はほとんど水を含まなかったが一部は含み、海をつくったと考えられる。

 ただ、水を含む微惑星が多いと海の深さは数十キロ、数百キロメートルになり、水浸しで陸地のない惑星になってしまう。今の地球の海の深さは数キロメートルだ。
 生命が誕生するには陸地も重要という説が有力視されている。田近教授は「地球が水浸しにならず、生命にちょうどいい水の量になったことに必然性があったのか、単なる偶然だったのか、分かっていない」と話す。

 水を含む微惑星は基本的にスノーライン以遠にあり、木星などの重力の影響でやって来て地球の材料になったと考えられている。微惑星がどんなものだったかは分かっていないが、水浸しの惑星にならない絶妙のバランスで配合された可能性があるという。

 当初、もっと海水が多かったが、分解されてなくなったとの見方もある。

 宇宙航空研究開発機構が2014年度の打ち上げを目指す探査機「はやぶさ2」はC型という種類の小惑星を狙い、地球や生命の材料物質を探る。C型は炭素質コンドライトと呼ぶ水を含む隕石(いんせき)の起源とされ、かつて地球に水を供給した微惑星の名残という説もある。海水量と関係があったのかもしれない。

新聞。やはり新聞のほうが読みやすい。



地球の進化(放送大学)関連


乗馬場近くの道路。shimla内を運転するには特別な免許証がいる。




馬に乗った時の博労君。顔つきはちょっとアフガン系?乗馬駅から1500メートルほど坂を下ったところに住んでいるという。
私が乗馬していた約1時間半の間、馬を制御しながら脇を歩いた。本当はもっと遠くの高い峰まで行くコース(350ルピー≒963円で2時間半。インド価格では結構高い。定価表あり)だったのだが、馬しか行けない山の尾根にある展望台を過ぎたところで時間がなくなり引き返した。なお、チップの要求は無かった。



乗馬 動画4


ちなみに展望台往復までなら250ルピー≒688円だ。展望台までの途中にはスキー場があったが雪は無い。
動画5の最後に見える丘が展望台だ。
乗馬 動画5


Kufriの乗馬駅 


インドでも中産階級が増えたためか、商売繁盛だ。

馬の通路には写真のような石がごろごろしている。馬も石の上に足を置いあと安定を確かめたりして歩きにくそうだった。
なぜ石を取らないのかと、このときは不思議に思ったが、後で考えると雨が降ると泥は滑るので、坂道の石ころは安全のためなのだろう。
乗馬で展望台までの途中にヤクもいた。
背には鞍があるのは、観光用のヤクだからだ。展望台で私も、乗って写真を撮った。20ルピー。高けー!!




展望台からの景色(下)。前のヒマラヤ写真より山に近づいた所から撮っているのが分かる。山肌を削る道は、ヒマラヤ麓方面へ行く道だ。
クリックで大きな写真へ。


展望台の博労君とカーンさん(写真)

土地は有効に使う。平らな所は段々畑。斜面は草地。畑に作物を蒔く(植える)時期なのか、近くでは乾いた畑にホースで樽に溜めた水を流していた。


畑。右上で草を乾燥させている。





シムラの風景
町中


道路の下から


道路の上から




ヒンズー教のジャクホー寺院(Jakhoo Temple) からの景色

幾つかの山並にこのような町がある。同じ方向へ町が作られるのでお互いの町は見えない。




建物を小奇麗にすれば、何となく熱海に似ているが、こちらは標高2200メートルだ。


野焼き(枯草を刈った後に行う)



上の写真(4枚)と同じ場所の動画6(ジャクホー寺院(Jakhu Temple))

ジャクホー寺院 : 後にある階段を登ると僧侶がいる。御札(キラキラの布)を買って、願い事をして木に結ぶ。神社と同じだ。
なお、布の値段はお布施と同じで、指定はなかったのでケチって20ルピーにした。50円や100円をケチって情けないと思う。せっかく日本から行ったので100ルピー以上にすればよかったと反省する。




植民地時代の総督館。
行きたいと思うのは過去の夢を想うイギリス人くらいだろう。ここの時間は、商店街を歩いたり、乗合バスに乗りたかった。
わざわざ見に行くところではないが、観光地と言われる場所が少ないので、ガイドを付けると行くところになってしまう。
とは言え、ここには数人ずつのインド人とイギリス人の観光客がいた。


しかし、シムラ博物館は、絶対行ったほうが良い。

某所で特別に銃を触らせて頂いた。相手にご迷惑をお掛けしてはいけないので加工。ぼかし処理をしているが、この私のうれしそうな顔を見て下さい。56歳にして初めて、本物の銃に触ったのだ。
銃剣はナイフのように鋭い刃が付いているものと思ったが、違った。力いっぱい突き刺す武器だった。

Naturally, this gun is a toy.



草刈りの後に残る菱形は、長年の草刈りで出来た足場だ。急峻な山々でも南側には、ふもとから頂上まで、深い浅いはあるが、この模様がある。下の写真は浅い紋様だ。人家の近いところは深く段々畑の様になる。前出のヒマラヤ前の山にも、カルカからシムラまでの山々にも日当たりの良い所には、この模様がある(列車の中からチョットと見えた足場模様:
動画)。草刈は女性の仕事なのだろう、旅行中に見た草を刈っていた人は女性だけだった。
シムラ地区の女性は健康で働き者ということで、お嫁さんに人気があるという。今の時期の山には乾季のため緑が少ない。

このページ中ほどにあるヤクを連れている写真に、菱形模様を近くで見た姿もある。


shimlaの山並みを町の北端の山から撮る。インド大地側の写真だ。家が山の稜線上付近しかないが、メインの町は稜線の反対側にある。
ヒマラヤ写真(上から3枚目の写真)はここから更に、北側の山を越えたところから撮った。





泊った「スプリングフィールド」ホテル。玄関。


部屋と中庭。四方の内の3面が庭に面している部屋だ。

猿が庭や屋根で遊んでいた。人と猿はお互いに不干渉の共存社会だ。庭で紅茶を飲みながら景色を眺めている前を、猿が我々に無関心な足取りでゆっくりと横切る。
ホテルの猿。

拡大。日本猿と似ている。日本人としては日本猿を応援したいが、インドのほうが足長だ。チト悔しい。





カルカから来たときは列車(トイトレイン)だったが、シムラからカルカへは車で下った。

その他のシムラ(Shimla)市内動画

進行方向右がヒマラヤ側
1.山側の町中動画7


一番人が集まる山頂の広場。進行方向左側がヒマラヤ側。
そういえば、今回の旅行で目立ったのは携帯電話を持つ人が多かった。一通話数円とのこと。インドの携帯は6900万台以上とのこと(CIAデータ)

2.動画1と同じ場所動画8

3.麓側の町中動画9

4.東麓側の町風景動画10


5.カルカへ向かう途中の麓にある村(車から)動画11

6.カルカ(Kalka)駅近く動画12


山頂広場にある夜のキリスト教会

モールからのシムラ夜景


シムラの繁華街ザ、リッジにある町の商店街(モール mall)は夜8時ごろ閉まる。その後のホテルまでの帰り道に見た夜空の星は壮観だった。オリオンの小三ツ星と星雲を40年ぶりにしっかり確認した。

オリオン座の三ツ星(前述の小三ツ星でない。ただの三ツ星だ)は、なぜか魅力的だ。全天の中で太陽、月の次くらいに目立つ。インカ帝国では死後世界の入口が三ツ星のところにあると言われたり、ギザの3大ピラミッドの並びが三ツ星と同じなど、大切に思われていた。等間隔のほぼ一直線に並んだ光る3つの点は、どんな時代でも、人々に好まれてきた。
そういえば、初代のステップワゴンは、夜は2キロ先でも、後姿で走っているのが分かった。縦に並んだ3つのテールランプがあったからだ。明るい所で見るとチープな造りだが、テールランプがカッコ良くて皆、購入した。モデルチェンジで、流行の丸みを帯びたデザインにしたが、3つ星が無くなったので、とたんに売れなくなった。ホンダは、初代が売れていた理由に気づいていなかったのかなア。
人間の目には等間隔の同じ光量の3つの光が目立つものらしい。夜空には各季節に大三角がある。多分、正三角形のテールランプを持った車も売れるのだが、法律的に難しいのか?何にも考えていないデザインの日産のキューブが売れているのも、なんも考えなかったので正三角形のブレーキランプがあったからだろう。
多角形の中で、3角形はなぜか好まれるが、最も好まれるのが正三角形だ。ちなみに最近のベンツのヘッドランプは斜めから見ると2等辺三角形だ。

食事をしたインド料理店(モールにて)。鶏カレーが美味い。


今回の旅行起点ムンバイ

カルカからシムラまでのトイトレインとカルカ駅は(5)ここ

今回のインドでの感想(結論)
インドは広い。日本は小さすぎる。日本の周りに中国もあるが、やはり日本は小さい。
毎年、一つの経済圏が必要とする人口が大きくなっている。アジア経済圏なんて小さいことこと言わず、また困難には知恵を出し、徒歩と帆船時代にできた国境にこだわらないで、日本からイランまでの国の統一を検討する時期が来ているのかもしれない。世界人口の半数の国が出来れば、経済的に長期成長間違いない。それに刺激され、南北アメリカ国、EUとアフリカ国、そしてアジア(オセニア含む)国の3つに纏まっていくのだろうが、早く動いたものが先行者利益を得られる。
言葉は文字も文法も単語も簡単で同じ内容をしゃべると日本語の半分の時間で済む、英語で良いだろう。ちなみに、日本語の文は英文の半分の時間で読める。良いとこ取りの、小さいときから2ヶ国語を自然にできる教育が大切だ。

シムラでお土産を買った。2メートルx1メートル強の厚手の織物(ショールとして売っていたがテーブルクロスとして使用)が600円だった。
プリントでなく4糸による織物だよ!! 今後、日本にこんなのが、入ってくるのだろうからデフレはまだ続くというのが実感だ。
是非、日本の100円ショップのバイヤーはシムラに人を派遣してくださいネ。穴場ですよ。

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ガイドのカーンさん。道中我々のわがままを聞いてくれた。頼りになるガイドさんであった。個人的なガイドもやってくれるので、インド個人旅行を計画している方は連絡してみると良い。連絡はローマ字か(RENRAKU HA RO-MAJI KA)英語でカーンさんの連絡先:mac786#indiatimes.comchange( # -> @)ガイド費用は分からないので直接聞いてください。私の感想は「お金にがめつくないので、安心できた。土産物屋へはこちらから言わないと連れて行ってもらえない。あのインドでチップも請求しなかった、まじめで清廉な青年だ。」
3年前には、持っていなかった携帯電話を多用していた。シムラの外れの馬乗り場でも携帯は使えた。

彼は、2005年の愛知万博でインド館員として来日した。
愛知万博での写真




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2006年インド旅行の取捨写真

2006.03.25載

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