戻る

       Counter

西安旅行(2010.10.15(金)〜18(月))

西安は、古都の長安だ。臨海地域だけの発展に困っている中国政府は、首都を北京から内陸部の西安へ戻す遷都を検討しているという。

2010.10.15(金)

中国東方航空MU522便が機材手当てが原因で成田を1時間遅れで出発した。
上海空港では同じ理由で2時間遅れとなった。

JALと共同運航で成田から西安までMU522便であるが、上海空港で飛行機を乗換える。
飛行機からのボーディング・ブリッジを出たところで係員が「西安、Xi'an 、MU522」のプラカードを持って「シーアン、々」と声を掛けていた。
乗換客が集合後、入国審査と荷物セキュリティチェックに回った後、国内線ターミナルへ案内
された

上海浦東空港国内線ロビーで、飛行機の準備を待つ。この日は多くの飛行機が遅れロビーは大混雑だった。



上海での乗換時にもらった乗換票

成田から来たときは8Aの席だと手書きしてある。

上海浦東空港での乗換。飛行機は中型のエアバスA320になった。(上海までは330)



ようやく西安の咸陽国際空港に着いたのは、25時半近かった。



咸陽空港で私の手荷物が出てこなかった。いつも、荷物を預けたりしないのだが、西安到着が遅くなるので寝酒用に「薩摩白波」を500ccペットボトルに入れて持っていったのだ。
近くにいた女性係員へ出てこない旨を言ったら、付いて来いという。到着ロビーは1階なのだが、国際線出発乗換)ロビーがある3階へ案内された。
荷物が在った。多分、乗務員の手荷物に分類されていたのだろう。
一階の荷物検査場へ戻ろうとしたら、横で我々の様子を見ていた係員が、戻らず先へ進めという。数メートル先に荷物検査機があった。彼が検査機電源を入れ荷物検査をした。


人気のない、電気のほとんどが消されていた3
階ロビーへ出たら、薄暗い出口にたった一人だけいた灰色のジャンパー姿の男が「タクシー?」と声を掛けてきた。
1階への降り方も分からないときだったので、乗ることとし、ホテルの予約票を見せた。300元というのを150元に負けさせた。
男は「お客が付いて良かったね(多分)」的なことを、何人もの空港係員から声を掛けられていた。
男の顔つきが卑しかったのでタクシー乗込み時は、用心して荷物を手持ちとしトランクへ入れなかった。


乗り込んだが、女性運転手のタクシーは、空港ビル周辺を回って街へ向かわない。料金メータは倒していなかったが、150元と合意したからだと思った。
女性に早くホテルへ行けと言ったが無視され、結局空港ビル周辺を2周(7〜8分)回った。

タクシーが止まったら降りようと話していたら、
ターミナルビルの横端でもう一人の乗客を引っ張って来て、助手席へ乗せた。
こちらが降りるにしては場所が悪いと思って躊躇していたら運転手も女性から客引きの男に代った。
いままで運転していた女性が後席に乗るため、私の荷物をトランクへ入れようとしたが断った。
女性を空港に置いて、メータを倒し、ようやくタクシーは西安市内へ向った。
女性の運転で空港周辺を回っていたのは、我々を他の車に乗せないためだったのだ。
西安は土ぼこりっぽい街らしく、道路沿いの木々の葉には土ぼこりが降りていた。
運ちゃんは途中の高速道路を降りたところで、高速道路の領収書を見せる。20元だった。どうも、20元は別料金なので足すぞと言っているらしい。
しかし、料金所の支払時に「5」という赤いダイオード表示が出たのを私は見ている。
この嘘はダメだ。間違えたり忘れたというのではない。積極的に騙そうとしたウソだ。
「嫌なのに引っかかってしまった」と思った。そして150元以外は支払わないと決めた。
我々が空港ビル1階へ降りるのを面倒がったのが悪いのだ。
高速出口から数キロのところで助手席の乗客が降りた。100元札を受け取った運ちゃんは「100元パーパーソン」と上機嫌で言った。200元せしめる気になったのかもしれない。
空港から45分後に「ホテルだ」と言って停まった。メータは200元を超えていた。
約束の150
元を支払った。運ちゃんは慌てた様子で、高速領収書を持ちながら彼の主張を何か言ってきた。
高速料金を払えと言っていたに違いない
こちらはこちらで、深夜に小一時間も不愉快にさせられたので、主張したいことがある。日本語で「ふざけるな」と言って降りた。
今、考えるとこの悪徳タクシー写真を撮っておけば良かった。
そして、顔つきの卑しい人は、そうなる理由があるものだと思った。


ホテルだと言われたところは、レストランだった。(帰国後調べたら、蟹と包子の有名店)26時半でも人の出入りがあった。

地名的には、ホテルはすぐ近くと思える場所だった。観光案内書のホテル地図もピタリの場所だ。レストランの受付女性に道を聞いたら、親切にも案内してくれた。隣のビルだった。
26時30分近くだったので看板の電気を消していたらしい。フロントに行ったら、内側の床へ横になって寝ていた従業員2人が起きた。

2010.10.16(土)

ホテル 8:43



ホテル前の交差点と城壁。845



歩行者用の信号が青に変わっても、横断歩道を横切る車用の信号は青だ。車も信号を守りながら歩道を横切るので、歩行者は車を避けて渡る。このような信号は初めて見た。


歩行者用信号が赤の時に、自動車が多く通っている中を縫うように皆さんが横断歩道を渡っていたのを見て、マナーの問題と思っていたが、それは間違いで、歩行者用信号が用をなさないためだったのだ。


城壁。西安の中心部を四角く囲んでいる。周囲14km。レンガ造り。外側はほぼ垂直、内側は75度の斜面だ。写真は外側。


含光門



内壁。朱雀門。

朱雀門の横で、路上マーケットが開かれていた。何故かネギを買って帰る人が目立った。


土曜のせいか、公園で大勢のお年寄りが太極拳や剣舞、運動器具での運動をしていた。
下は朱雀門から南門(永寧門:えいねいもん)へ向かう途中の公園にあった運動器具。足を空中の器具に置いて、前後に動かす。
日本で5年程前に流行った器具に似ている。この器具で、瞑想の表情で合掌しながら大きく足を動かしている人がいた。上級者の自己顕示なんだろうが滑稽でもあった。

私も試した。

永寧門(南門)。中庭でセレモニーをしていた。入場40元。925

観客のほとんどは、帽子をかぶっている招待客。出し物は、サークルや教室の発表会。おばさんの合唱団や子供のバレエなど。




この兵隊に扮している人は、お役人なのか、城壁の関係者なのか、学生アルバイトなのか、何故か気になった。でもポーズを取ってくれて、ありがとう。



ホテル近くの含光門からも城壁に入れたのだが入口に気付かなかった。

永寧門(南門)城壁の上9
27

明時代の建築という。道理でレンガは北京で見た長城と同じだ。

城壁の上は幅広な通路になっている。この城壁が西安の中心部を囲んでいる。スモッグで先は霞んでいる。写真左が内壁側、右が外壁側。



周辺の道路には、永寧門(南門)へ行く歩道が無い。入場券売場がある南門まで、通行中の車間をすり抜けて、安全地帯を渡る。お年寄りには厳しい運用だ。
城壁の入場券。もちろん14kmの城壁を1周出来るし、何箇所もある出入口の、どこで降りてもよい。
城壁の上は外からだとひと気が無いように見えるが登ると結構人が歩いている。
画面中央の赤屋根店はレンタル自転車屋。デポジット500元。30分か1時間が20元だった。

価格部に書いてある「肆」は呉音、漢音とも「シ」と読む。4の意味だ。

南門から1.5km歩いて鐘楼へ行く。
鐘楼が城郭の中心で、西安の中心部だ。
鐘楼は4方を道路に取り囲まれている。鐘楼へ行ったり、道路を横断するにはは地下歩道を通る。


鐘楼



鐘楼から北方面の景色。ちなみの列車駅は北東方向にある。
4つ目くらいのビルで、この日の夕方に日本食レストランの打壊しがあった。1024


通路両側にあるガラスの建造物は地下歩道入口。渋谷のハチ公前交差点の歩道入口より断然大きい。
工事中だったのかもしれないが、地下道の平面図は、鐘楼を囲むロの字ではなく、一方が切れているコの字型だ。左の入口がコの字の、書き始め部分相当だ。
地下道の中に鐘楼入口(入場券売り場)があり、その周囲はみやげ物やが並んでいる。

反対側。


鐘楼からの動画



鐘楼からはワンマンカーの路線バスで西安駅へ向かう。運賃1元。乗車口である前扉に上票と書いてあるので、乗車時に乗車口横の料金箱へ1元を入れる。1051


西安駅へ向ったのは、明日に兵馬俑観光をしたかったので観光バス時刻を調べるためだ。

バス中から見たの交通銀行の窓口が土曜なのに開いているに気づく。中国の銀行は土日でも営業している。

車窓風景。


渋滞のため駅の200m手前で降り、歩いて駅へ。
西安では車があふれているのに、信号機が少ないのは電力供給が不足しがちなためだろう。

西安駅。1110


駅前を西南側から東南側へ縦断したが地下鉄工事中のため、遠回りする。駅構内は大混雑していたので入る気が起きず。

駅外で列車を待つ人々。駅前広場の周辺はバスターミナルにもなっている。駅前の城壁は、改修され大きく開口している。




西安駅東南側にあるバスターミナルから兵馬俑博物館行きの中型バスが続々と出ている。当たり前だが、兵馬俑とは出土品の名前であり、地名ではない。兵馬俑見物する地名は兵馬俑博物館である。バスの行先が兵馬俑ではなく「博物館」が加えられていたので、そんなことに気づく。
そのバスは大勢の客を乗せて到着し、降車バス停でお客を下ろしてから、発車バス停のポールへ来る。そして満席になったら出発するようだ。
なお、バス停ポールには運賃やルート、発車時刻の表示はない。そこに来るバスの前と横の「行き先表示」が兵馬俑博物館となっているだけだ。
翌日に兵馬俑へ行く予定だったが、11時台にお客を乗せたバスが続々と帰ってくるということは、西安駅出発から兵馬俑観光をして駅まで帰ってくるまで3時間ぐらいなんがろうと判断し、急遽今日に兵馬俑観光をすることにした。
兵馬俑博物館と書いてある中型バスへ乗り込んだが、並んで座れる席が空いていなかったのですぐ出た。そしてもう一度、様子を見ようとバスターミナル周辺を一回りした。
そのとき、Tがバスターミナルのチョット中央寄りから、観光案内書に出ていた兵馬俑博物館行きの遊5の大型観光バスが出発しているのを発見した。これに乗った。席は前のほうから埋まるようで、後ろの2列の片方が空いていた。このバスも全座席が埋まったら出発した。1135


運賃は乗車後に係員が取りに来たので観光案内書の通り7元を渡した。乗車券をもらった。


乗車券の運賃表示文字「」の中に七が入っている。「(シツ)」は7を表す。日本でも良く使う「染(セン)」と違う。「染」は中が九だ。実は帰国するまで、この字は染だと思っていた。
「大字典」ではは以下とある。
途中でページが変っているのを繋げている。
は「漆」の俗字で樹液を出す木の意味という。中国にも、正字やら俗字があるのだ。俗字例で思い出すのは正字「淵」と俗字「渕」だ。FAX文化の時、取引先に「淵」を使う苗字の人がいたが、正しい書き順が分からなくて形の悪い文字になるので、いつも俗字を使っていたなあ。

「大字典」は20数年前に5800円買ったのだが、引いたのは数度目だ。役立って良かった。また、調べながら日本の「音」読み「シチ」は、呉(3世紀)時代の読み方なんだアと何故か感心する。

このバスは市営バスだ。
観光バスと思って乗ったが、路線バスであった。兵馬俑までの行程の2/3は有料高速道路を走った。有料高速道路を通る路線バスは初めての体験だ。途中の西安大学や西安科学技術大学などのバス停で2/3の乗客が降りた。西安駅で見た兵馬俑方向から来たバスの乗客の多くが観光客ではなかったのに、ここで気づいた。
バス内に降車ボタンは無い。車掌さんはバス停名を言い、それに答えて乗客は手を挙げて停める。
ちなみに、市内中心部を走るワンマンカーにも、降車ボタンは無い。こちらは全てのバス停に停まる。

途中の華清池で、観光客系の乗客が1/3降りた。
華清池バス停から10分程度で終点の兵馬俑に着いた
1246

兵馬俑博物館バスターミナルのオオモクゲンジの木。中国原産。私は植物に興味があり、初めて見た木だったので写真を撮った。同行のTは「この木はモクゲンジといい、新潟辺りに多く植えられている」とうん蓄を披露した。

バスターミナルを歩いていたら日本語ガイドさんに声を掛けられた。折角なのでなのでお願いすることにした。劉さんという。どうして日本人と分かったかを聞いたら「日本人は靴底が厚い。服の色使いが違う」という。
この日の私の服はすべてが、中国でも店舗展開しているユニクロだったので、靴底か同行のTの服装で判断したのだろう。
説明は良かったし、細々としたことも教えてくれるので、ガイドは頼んで正解だった。ちなみに本日2組目のお客だそうだ。急いで回って欲しいという要求をしながら案内時間を聞いたら、兵馬俑だけだと2時間、始皇帝陵を含めると3時間と言う。

また、150元の約束で頼んだが、華清池前で支払いの段階で突然「兵馬俑だけだと150元。始皇帝稜を含めると250元」と言う。
結果的に始皇帝陵は、移動時間だけでほとんど説明を受けなかったので、ガイドは兵馬俑だけで良かったと思う。兵馬俑のガイドを頼んだままで、確認を忘れていたこちらも悪いのだが
、始皇帝陵へ行く前に始皇帝稜を含めると250と言って欲しかった。言ったとしても頼んだのだから‥。

兵馬俑博物館や始皇帝陵は、兵馬俑駐車場(バス停)まで行って、そこから周る。
私が持っていた観光案内書には西安駅からのバスが始皇帝陵を経由すると書いてある。しかし、地元の人は乗降りするのだろうが私はバス停に気付かなかった。

バスターミナルや駐車場のあるところから兵馬俑博物館まで遠い。電気自動車乗場は混雑して5分程度並んだ。90%の中国人と60%の外人観光客は電気自動車に乗った。外人観光客の乗車が少ないのは、乗る理由が分かりにくいためだろう。
兵馬俑博物館までの電気自動車運賃は
5元。入場料は始皇帝を含めて110元。
ガイドさんは、入場料や電気自動車は無料。

タクシーなども兵馬俑の駐車場までしか入れない。


ガイドさんへ「半世紀前に中国での文化大革命のお陰で、日本の我々の世代は苦労しないで豊かな人生を送ることができた」と話したら「中国の為に悔しい」と言っていた。あの時代から中国が現在のように子供の教育に力を入れていたら20年前には、日中の一人当たりGDPは変わらなくなっていただろうな。



兵馬俑博物館1号坑。発掘されたときは色が着いていたが、しばらくしたら酸化し消えてしまったそうだ。1332


最前列は、鎧を着けていない。だんだんと重装備になり、最後列は前後に鎧を着ける。
この時代の矢は矢じりに毒を塗る

3
号坑。指令所だそうだ。首が無い像が多い。作る前に始皇帝崩御のためらしいという。ということは、実物に似せて作っていたのか! 1348


2
号坑。酸化を恐れ、ほとんどが発掘していないし、発掘してもすぐ埋め戻す。1402


青銅製の始皇帝が乗る馬車模型。実物の1/3の大きさ。



始皇帝。兵馬俑博物館からバスターミナル近くの駐車場まで戻り、始皇帝までの電動バスに乗る。バスは無料(110元の入場券込)。
数年前まで陵の上まで登れたが今は禁止されている。登るのを楽しみにしていたので残念だ。1513


秦の始皇帝が中国を統一しなかったら、今の中国は欧州のように多くの国が存在する地域になっていたとする説もある。彼は徒歩と帆船の時代に中国を統一したすごい人物だ。長安から北京まで旅団を派遣したら2、3年は帰ってこれない時代だ。

を一周する電気自動車。8この車で一周するだけが、始皇帝陵観光だ。

運転席前の円筒形はスピーカー。
私は中国の歴史が好きなので始皇帝に関しても多くの知識がある。 ガイドさんの説明のほとんど全てが知っていた内容だった。

始皇帝陵のバス停近くで、爆竹と花火(音だけのもの)打ち上げをしていた。結婚のお祝いで鳴らしているという。西安中心部では爆竹と花火は禁止されているが、この辺りになると許されているのだそうだ。

始皇帝動画

兵馬俑博物館と始皇帝陵の入場券。
秦始皇帝陵博物館というのが2つ合わせた名称みたいだ。


バスターミナルから兵馬俑博物館までの電気自動車の切符。
始皇帝陵を周る電気自動車券。8元。

「大字典」によれば捌は「に同じ。八に通ズ。呉音でハチ、漢音でハツ。訓でサバク」と書いてある。サバクなら私でも読める。
なお、呉音でへ、漢音でハツ。


角川 漢和中辞典によると下。



始皇帝から兵馬俑駐車場まで戻り、劉さんの手配したタクシー(白タクだった)で楊貴妃が遊んだという華清池へ。白タク代20元。途中に何度も「西安市内まで乗らないか」と言われたが断った。
ガイドの劉さんは、我々が本日最後の客で、家はこの近くの温泉付き旅館とのことなので同乗した。


華清池

入場料70元。入場券を一枚は劉さん紹介の個人販売者から、もう一枚を切符販売窓口で買った。ガイドさんへ手数料が入るのだろう。チョット面倒だが、商売熱心な姿なので不快は感じない。
写真の山はリザン(驪山)。1604


華清池。1612


ここは温泉が湧いている。

近年発見された湯船。大きいのは玄宗皇帝、小さいのは楊貴妃が入った言われる。下は楊貴妃用(だと良いね)という風呂。



温泉のお湯で手を洗える場所と下写真右の楊貴妃の入浴像が人気だった。
日本人から見ると2枚前の写真にあるコンクリ製の龍の像とか、楊貴妃の入浴像は、世俗的過ぎて唐時代の観光名所を見せるこの場所に合わないと感じる。
中国人は虹色の発光ダイオードで何でも飾り立てるのが好きな国民性だから、こういうものを作ってしまうんだろうなあ。

入場券

兵馬俑と同じ最高(AAAAA)級重要文化財というのは抵抗がある場所だ。見なくても惜しむような観光地ではない。
朝から歩き続けで疲れたこともあり、早々と華清池を出た。しかし、時間と元気があったら「温泉」に入りたかった場所ではある。

華清池から兵馬俑の方向へ200m戻り、西安駅までのバスを待つ。このバス停で78分待ったら火車(列車)駅行きが来た。
駅まで運賃6元。乗車後、係員に7元を渡したら、1元が返って来た。切符は発行しなかった1626


次のバス停(多分、華清池)だと座れない人が出た。ガイドの劉さんが別れるときに、300m戻るとバス停があると教えてくれたので、助かった。


バス車内。1635


市の中心部へ近づくと渋滞となる。駅に近づくと一回の信号で10メートル進むなんてことになる。ほとんどの乗客が駅近くで降りる。

西安駅内。この時刻になると空いていた。1735


切符売場


駅でバス路線図のある地図を購入した。

バス停名が書いてある。地図
主要バスルートも地図
          〃        地図2
西安駅の列車時刻表も地図

西安駅前広場。1736


夕食を鐘楼近くの餃子屋「徳発長」でとる予定を立てていた。駅から鐘楼へバスかタクシーで行こうとしたが、全てのバスが混んでいた。道路のあちこちにタクシーを拾おうとする人がいたが、空車のタクシーなど一台も走ってない。

いつもそうなのかと考えて「西安市は公共交通を拡充しなければだめだ」なんて話をしながら、駅から3kmの鐘楼近くの餃子屋「徳発長」まで歩くことにした。この日はデモがあったせいで特別に混んでいたのかもしれない。
歩いている人の群れが鐘楼方面や西安駅方面、その他方面へ動いていた。歩道が広い町なのだが、人があふれて歩きにくい。

途中、鐘楼近くでデモに遭う。小日本やら日の丸にXが付いているプラカードが見えたので反日デモと分かった。いつの間にやら、道路に一台の車も通っていなかった。1823


釣魚島の文字が見える。1823


上の拡大。

同感する解説記事    コピー
尖閣諸島は難しい問題だ。日清戦争前までは台湾(中国)領だった。台湾が日本の台湾県になったときに、尖閣諸島だけが沖縄県に入れられた。
以降、終戦まで日本領。敗戦時に「満州と台湾が中国へ返る」ことが決まった。しかし、尖閣諸島沖縄県だったので、そのまま日本へ帰属したのだという。中国、台湾としては日清戦争以前の状態へ戻すのが筋だと言っているのだ。
しかし、戦後の実効支配は日本だ。領有権の現実は実効支配が正しいと考えられている。パレスチナを占領してイスラエル人入植地を作るなどは実効支配を狙ったものだ。ちなみにイスラエル人の入植地は、ライフル法で支配しているという。アメリカ大陸へ勝手に入り込んで住み着いた白人がインディアンに対して行ってきた「ライフル銃の射程有効距離に入ってきたら撃ち殺すぞ」という決まりだ。現代でも、やることは昔と同じなのだ。
「尖閣は日本、竹島は韓国、北方4島はロシア」が実効支配国だ。
日本で良く言われている、調査したらどこの領土でもなかったので沖縄に入れたという説は、台湾のすぐ隣にある島で、昔から台湾地図にも書かれていたというし、元の時代に倭寇からの略奪を防ぐエリアに尖閣諸島が入っていたので、客観的に考えると無理がある。

領土問題は、各国とも絶対に引けない問題だ。どの国でも、引いたらナショナリズムが沸騰し100%の確率で政権が倒れ、200年後にもバカな政治家の失敗例として語り継がれる。
そんなことから、外務大臣は相手を刺激するような威勢に良いことを言えない立場なのに、前原大臣は「捕まえた船長を国内法で粛々と処理する」なんて言った。多分、自分の仕事が理解できていないのだ。自分の意見を主張することが、国家の損失になることが予測できないか、自分可愛さと国家損失を天秤にかけても自分を重く考えてしまうかのどちらかなのだろう。彼の領土発言を契機に、温家宝の強硬発言やレアアース輸出停止、フジタ社員の逮捕があり、メドベージェフ大統領の択捉訪問があった。レアアースの輸出手続やフジタ社員は中国の国内法で粛々と処理され、ハイテク電機業界は大騒ぎし、フジタは中国の案件から撤退した。船からの北方領土を視察した前原外務大臣が「ここは日本領土だ」と勇んだら、いままで日本に遠慮して北方4島を訪問していなかったロシア大統領だって勇まなければロシア国内は収まらないのだ。日本に良いことは何もなく、損失だけだった。
こんなお粗末な思考回路を持つ政治家を、民は情けなく思うものだ。
また、前原大臣(48歳)が若手と言われるのに不満を持つ。

エジプト王朝以来現在までの5000年間の歴史で、45歳以上で良い仕事をした政治家はいない。
良い仕事をした45歳以上生きた政治家でも、立派なことを行ったのは99%が35歳前だ。
日本の歴代政治家で一番評価が高いのは聖徳太子だろうが、彼は10代で摂政になり29歳で冠位制定、30歳で憲法制定、33歳で遣隋使派遣だ。以降、死亡までの15年間は、仏教の信仰が厚くなった的なことしか特記されるようなことはしていない。
また、日本の生んだ改革者は織田信長だろう。満17歳で父の織田信秀が死んで家督を継いだ。21歳で斉藤道三に会い、25歳で尾張統一、26歳で桶狭間の戦い、33歳で美濃征服、34歳で上洛、しかし、その後は残忍になり36歳で浅井、朝倉と戦った姉川の戦い、37歳で比叡山焼討ち、39歳で浅井を滅ぼす、40歳で長島一揆の殲滅、41歳で長篠の戦いと48歳で死ぬまで残虐になりながら戦いを続ける。また若年であった尾張時代から楽市楽座など良い治世で国を豊かにした。
3000年間続いたエジプト王朝の英雄、ラムセス2世も24歳で即位、28歳でカデシュの戦いでの勝利があったが、40歳過ぎてからは自画自賛を示す巨大建造物を多く作る政治で国民を苦しめた。王朝最大の英雄トトメス3世の詳しい年齢は不明だが、20台前半で王になっている。治世は54年間あった。その治世17年目で王朝史上最大の戦いであるメギドの戦いで勝利し、エジプト王朝一番の英雄となった。
もちろん、秦の始皇帝も年齢の歴史は同じだ。13歳で即位、38歳で中国統一。若い頃から秦を豊かにし法治国家にするなど、治世は優れていたが、中国統一後は巨大土木工事を行うなど暴君との評価に変わる。アレキサンダーやジンギスカンだろうと、世の中が平安の時代の政治家だろうと、同じだろう。
現代日本のリーダの菅さんや鳩山、麻生、福田さんは60代であり、充分過ぎるほどの悪政しか出来ない年齢だ。人類に立派な老人リーダーが、現れた歴史は無いのだ。
政治家トップは、何でもしなければならないのが仕事だ。3日間ぐらい徹夜しても元気じゃなければ、良い仕事はできないものなのだ。
27歳でリビアの指導者になったカダフィ大佐も30代までは良い政治をしていた。

35歳を過ぎた政治家は、正しい治世よりも楽をして治世をしようとする。目的が権力の維持になってしまうのだ。しかし、若い政治家は正しい治世が目的のまま走るのだ。
それが、DNAに組み込まれた人間の本質なのだろう。

このデモに参加しているのは若者が中心だが、日本でTPP反対のデモに参加している農民は中高年が中心だ。尖閣問題は国家の問題だが、TPPは自分たちの損得問題だ。年齢によって思考の重要性をどこに置いて行動するかかが分かる例だ。

18
23

デモ見物時に同行のTが日本語で私に話しかけた。近くの若者がTをいぶかしそうに睨みつけた。
トラブルになったら「コーリアン、々」と言おうと思ったが、何も起きなかった。

18
25


参加者も野次馬も、お祭り気分なのだろう。楽しそうに行進し、笑いながら携帯電話で写真を撮ったりしていた。




ここで日本料理店が打ち壊しにあっていた。1826


デモ自体は、大勢の公安に管理されていた。デモ隊は1万人以上だった。(日本の新聞では7千人)
野次馬は5万人以上いた。デモ隊が、発する「ウォー」という声(音)は、70年安保時以来で、当時を懐かしく思い出した。しばらくしたら、デモ隊の行進が止まり、カケヤで杭を打つようなズドン、ズドンという音と、一段と大きくなった群集の「ウォー」という声が、聞こえてきた。何が起きていたかは車道を分離する柵や群集に遮られて見えなかった。後述するように、日本食レストランを打ち壊していたのが翌日に判明した。

ネットにあったデモ参加案内。

2011年08月のプライムニュースを見ていたら、中国在住のコメンテータの加藤嘉一氏が「この西安デモの首謀者は大学を退学させられた」という。
大学生に「過激すぎるデモを行うとお前のキャリアが無くなるゾ」という脅しの意味があるという。
催涙弾や石、ゲバ棒が飛び交った70年安保を経験した我々から見ると、過激じゃ無く、管理されていた気がするけど「けじめ」や「建前」を大切にする国でもあるのだろう。


夕食は、鐘楼交差点にある有名店の「徳発長」にて餃子。

餃子は注文カウンターか、席に座ってからウェイトレスさんを呼んでメニューを示す。外人に慣れているらしく、ウェイトレスさんはメニューを示しながら分かりやすく説明してくれる。
その他の麺、野菜、炒め物などは、ワゴンが周ってくるので品物を指し示して注文する。
メニューに、注文が面倒でないコース料理を探したが無かった。今考えるとウェイトレスさんへセットメニューかコース料理の有無を確認すれば良かったと思う。

餃子は熱々でなく、皮が厚く、味も何となく物足りなかった。
多くを頼んだせいもあるが、苦しくなるまで食べようという気も起きず、残した。


徳発長を出たが、まだ周辺は交通止めで車道も人で埋まっており、人ごみの中に所々公安の車が停まっていた。1922


後ろの建物は鼓楼。

歩いてホテルへ帰る。
途中に乾物屋があった。お土産用に干しぶどう2種購入。

青い干し葡萄は31.6/kg。262gで8.3元。美味い。

もう一種は、赤い葡萄で72.0/kg。これも美味しく19.7元。

全部で28元だった。写真のラベルで袋のフタをしてあったので、ラベルが切れている。
帰国後、食べたら赤い方は、僅かだが種入りが混じっていた。

結局、夕方の西安駅からホテルまで6km以上歩いた。
前日に余り寝ていないこともあり、この日はヘトヘトに歩き疲れた。
この日の万歩計73000歩。


2010.10.17(日)

朱雀門近くにある中国農業銀行で、Tが両替をした。申請書の記載内容チェックが厳しく、空欄があると付き返されていた。レートは成田よりも西安空港よりも良い。

銀行前からタクシーで大雁塔へ行く。13.5元。

大雁塔横にある露天商街の歩道には、下のような像がいくつも置かれている。下は八卦置(易者)像。像には日本語の解説がある。ここで、日本語を見れるとはうれしいものだ。
昨夜の打壊しで、これらの日本語の解説が標的になり、壊されてしまっていたら、修理後の解説は日本語表記がないだろうなあ。9:58


西安市内には、このようなモニュメントがあちこちにあり、公園には運動器具もある。また道路幅も広い。そんなことから、西安市はお金持ちの市というのが感想だ。観光客からの入場料収入が多いのだろう。
静岡県や静岡市、東京都のように、自分達が入る県庁やら市役所を、観光客が驚くほど立派にするのではなく、観光客や市民の為に使っているので、日本より良い治世が行われていると思えるが、昔の栄華を見に来る観光客に、見たくもない現代の栄華をも見せているので余計なものとの感じもする。
まあ、公営である長崎のグラバー邸にある庭園内のコンクリート造りの池や噴水、巨大みやげ物屋に対するのと同じような不快感は感じなかったが‥。

前にも書いたが、西安はバスとタクシーだけが公共交通であり貧弱すぎる。現在、地下鉄を2本建設中であるが、10年前に地下鉄建設をすべきだったなんて感想を持つ。
2020年には西安地下鉄の総延長は250kmを超える計画という。ちなみに東京は現在304km。


大雁塔。南側広場から。兵馬俑が発見されるまでは、ここが一番の観光地だ。1008


平山郁夫の絵と同じだあと思った。
ちなみに私は、平山郁夫の絵に余り価値を認めない。平面的な画風から写真で充分と思ってしまうのだ。

10
15


境内のスピーカーからは、楽器伴奏されたお経が流れていた。Tはお経は音楽なんだけど、このお経は世俗的過ぎると言った。

最上階から西側を見る。1041



北側。境内にあるコンクリート建築のお寺。建物の鴟尾(シビ)瓦などは、奈良の唐招提寺や 東大寺みたいだ。東大寺や唐招提寺は大雁塔の80〜100年後に建立されているので、当時にも建物があったとしたらそんな形だっただろう。
内部は土産屋と大雁塔の解説展示。
昨日、鐘楼で遭遇したデモ隊は下の広場から出発した。


大きな写真


南側


大きい写真

大雁塔最上階の天井。もちろん最近、書かれた文様だ。1043



大雁塔にある玄奘三蔵がインドから持ち帰ったといわれる仏舎利(赤いガラスの中の白いもの)。1048


多分、ケースの中の、金属製の小さい塔が「厨子」というものだろう。これが厨子であることに、半年後に奈良へ行ったときに気付いた。
寺院内に展示されている昔の荒れ果てた大雁塔写真から、厨子は最近のものだろうと推測する。

右の2つが仏舎利。赤いフェルトのような布上に乗っている。

仏舎利を見たのは初めてだった。本物だったらありがたいものだ。

2014.04NHKの法隆寺特集で仏舎利容器をテレビ放送していた。法隆寺のは、香水入れのような形をした小ぶりな透明ガラス製だった。下写真(法隆寺舎利殿の仏舎利)。聖徳太子が2歳の時に手を合わせてお経を読んだときに、両手の間からこぼれた仏舎利という。



10
54


屋根には草が生えている。レンガを積み上げて作ってあるので隙間が多いのだろう。
1930
年以前の写真が展示されていた。塔はボロボロで雑草が茂り、上写真の塀の周囲は畑になっていた。
日本からの遣隋使や遣唐使は、この都に来て何を思ったのだろうかと感傷にふける。ちなみに、遣隋使や遣唐使の時代の日本は、しゃべる言葉は日本語だが、書く言葉は隋や唐と同じ漢文だった。彼らは、書けば意思疎通ができた。
平安時代(984年 永観2年)に東大寺の僧であった「然(ちょうねん)が宗の皇帝に会った時の記録には「中国語を話せないので筆談で話をした」とある。

経典の展示はない。大雁塔だけが残って、経典は失なわれたのだろう。

大雁塔のゴミ箱。西安市内にはゴミ箱が多く設置されている。
税金が安くならないのに、ゴミ箱が消えた日本から来ると、行政に必要なサービスであることを確認できる。

上の穴は灰皿だ。きれいなのは中国でも喫煙者は少なくなっているのだろう。

入場券



この後、徒歩で1km離れた陝西省歴史博物館へ。


陝西省歴史博物館

券売所で切符購入列を間違えたため、何故か無料の入場券をもらって入場。
中国人は何かの身分証明書を提示すると無料で入れる日だったようだ。 その無料配布の列に並んでしまったのだ。我々には無料入場の資格は無いので、売場に書いてある入場料を支払おうとしたら係員は「フリー」と言って入場券をくれた。

数ヶ月前に、上野の国立博物館で開催していた「中国文明展」で見たような内容だった。というより、そのもののような気がした。



タクシーで小雁塔へ
小雁塔。1309


内部。1316

2階以上は、人がすれ違い出来ない細い階段を登る。すれ違うときは踊り場で待つ。内部で会ったのは登り5〜6人、屋上で2人、下り4人だけだった。

窓は小さく奥まっているので景色を覗けない。







小雁塔屋上からの景色。1318





屋上への出入口。1318

出入りは斜めになる。1319



13
45


大きい写真
寺院内で唐時代の服装をした人たちが、映画撮影をしていた。そのため、小雁塔正面にある参拝道を通ろうとすると、映画関係者から追い払われた。


13
53




入場券30元。この券は同じ敷地内の博物館のものだが、裏のハンコで小雁塔専用になるようだ。



塔に登るときに切符のチェックは無かった。登塔と書いてあるが寺院への入場券なのだろう。

タクシーで労働南路にある鍋料理屋へ。労働南路は鍋料理店が集まっている町だ。
旅行案内書にある高新旗艦店を探したが分からないので、一番混んでいた「太陽?」店へ入る。
美味かった。係員は、メニューを示しながら親切に注文を受けてくれた。
注文の仕方は、鍋に入れる肉や魚、きのこ、野菜を選び、最後に「付けたれ」を選ぶ。「たれ」はしょうゆ系と塩にんにく系、そして「たれ」に加えるラー油があった。
「ポン酢しょうゆ」が欲しかった。ビールを頼んだが来なかった。イスラム系の店だった為だろう。
鍋の中の汁を、お客の皆さんは残していた。もったいない気がした。最後に、卵とご飯を入れたおじやが出来ないのが残念だった。

レストランから路線バスで鐘楼方面へ向かう。運賃1元。15
36

鼓楼などをバス内から見物。

バス車内動画

昨日のデモで打壊しにあった日本料理店の看板にシートが掛けられていた。(バス車窓から)


WASABI」の文字が見える。

バスで鐘楼へ行くはずが降り損ねた。1616

バスは385路線。西安には250のバス路線があるという。

鐘楼で降り損ねたので、次のバス停で降り、道の反対側からバスで鐘楼へ戻る。1元。
その時乗ったバス。12路、植物園行き 。降りた鐘楼バス停で。右奥の建物は鐘楼。バス停が随分と手前にあった。1623




夕食は弓削面にしようとホテルへの帰り道に歩きながら探したが、商店の無い城壁沿いの道を通ってしまい、 見つからなかった。
ホテルに着いたときに、念のため横へ回ったら弓削面食堂(右奥)があった。17:14


一旦ホテルへ帰り、朝に両替を行い元を持ったTと今回の経費精算を行う。

その後、上の店へ行きビールと夕食。


食べた弓削麺。大盛と小盛。大盛は私。は味付けしてある鶏肉。19:06

弓削麺は、長さ数センチ〜10センチくらいで太さがマチマチだろうと想像していたが、長い麺もあり、太さも一定に近く、ウドンのようだった。本場の料理人は、技術が高いのだろう。
汁はしょうゆベースのうどんのようなインスタントラーメンのような味だった。まあまあ美味かった。ここの女店員さんに、ハウチー(美味い)の発音を教わった。

Tが明日の空港までのタクシーをホテルフロントに頼んだ。高速料金込みで150元だ。ホテルへのチップは支払わなかった(気が回らなかった)。
部屋に行ったらインターネットが繋がっていたので、寝るまでの間に少し仕事をした。
この日の万歩計46000歩。


2010.10.18
帰国。
タクシーでホテル530発。150元と決まっていたためか、タクシーは料金メータを倒さなかった。高速料金所での表示は5元だった。西安咸陽国際空港6:15着。

空港に着いたが国際便の乗場が分からなかった。3回係員に聞いてたどり着いた。
到着が早すぎて国際便ロビーが開いていない時刻だったのだ。また入口も左後ろの看板に小さくinternationalと書いてあるだけで分かりにくかった。620ごろ勝手に国際線ロビーに入ったが、3人しかいなかった。
7
時頃に係員が来てロビーから一回出されて手荷物検査を行ってから再入場した。
成田行き800発のMU521便はこの日一番の国際便だ。

西安 咸陽空港出発階
(3F)レイアウト図

帰国してから3Fの国際線出発エリアは、入国時に通った場所だと気づいた。そういえばロビーに、国際線カウンターに並ぶ前に荷物をチェックする荷物検査機があった。入国時に我々が荷物検査された機器だ。周囲が明るかったので、このときは入国時に通った場所だと気づかなかった。

上海
空港での乗換え時は、来るときと同じく飛行機を出たら係員が待ち構えており、出国審査と荷物セキュリティチェックへ案内した。ただし、係り員の持つプラカードは「東京、NARITAMU521」だけだった。
NARITA
がTOKYOと同じ意味と分からない人は、プラカードが理解できない可能性があるのが気になった。

上海浦東空港の天井構造。ワイヤーに支柱を載せて天井を支えている。吊り天井じゃなくて載せ天井(屋根)だ。初めて見る構造だった。バランスを良くするために外壁が外側に倒れている。外側のフレームに力が加わる構造なのでフレーム基礎はガッチリ作ってあるのだろう。

吊り構造の建物は、丹下設計の代々木第一体育館が有名だ。上海浦東空港の建物は代々木第一体育館ならば、主柱とその間のワイヤーを数多くし、ワイヤーに天井(屋根)を乗せている。



大きい写真

感想
・その他
史跡入場料が高観光地だ。奈良の東大寺の500円を良心的に感じてしまう。
コンビニがなかった。個人商店らしき便利店と書かれている店はあったがビールや水を買っても冷えておらず、また店によって値段が違った。
電気バイク以外のバイクは見なかった。家からテーブルタップを引いてバイクへ充電していた。
地下鉄切符などの自販機がないためか、一元や一角はお札だった。
・兵馬俑の往復で乗ったワンマンカーでないバスの車掌さんは、カバンを持たず、両手に札束と切符束を持って車内を回る。
・我々が乗った、市内の路線バス料金は全線1元のみだった。冷房車だと違うようだが、乗らなかったので詳しくは知らない。
・最終日の朝、のどが痛かった。東京より西安は朝晩が寒い気候だったので、風邪をひいてしまったのだ。
・西安空港から飛行機の到着に合わせ鐘楼までリムジンバスが出ている筈だが、前述の手荷物トラブルのため、確認できなかった。
・滞在中に日本で右翼が中国大使館へ銃弾を送りつけた事件があった。翌日の中国の新聞に「在日中国大使館、右翼銃弾襲」との大げさな見出しがあった。
・旅行案内書は「地球の歩き方」シリーズを持っていった。観光地の入場料は記載より値上げしていた。兵馬俑は10月から値上げと聞いた。多分、他も同じだろう。
・「地球の歩き方」シリーズの良いところは地名や店名が現代中国体や単語で書かれている点だ。数年前の北京では、中国人に分からない漢字で書かれた案内書を持っていったので、飛行場へ行くのにさえ説明に苦労した。日中の字体統一や単語統一を早く行うべき。我々より遣隋使時代のほうが意思疎通が容易だったなんておかしいと思った。
・日曜でも銀行窓口が開いている。つべこべと理由付けしてサービスを落としながら、自分たちの給与は上げ続けている日本のメガ銀行を見ていると、中国の銀行のほうが正しい対応と思う。中国の銀行に、は日本全国へ展開して欲しい。

・旅行中に私が来ていた服が、ユニクロ上海空港店でも売っていた。
・尖閣諸島問題で日中が自己主張を始めた時の旅行だった。危惧していたとおり反日デモに遭った。
・旅行中のグルメ予定として狙っていた名物の餃子、鍋、弓削麺、包子の全てを食したが、包子はホテルのバイキング朝食にあったニラ饅頭と小籠包だったのが残念だ。やはりそれなりの店で食べたかった。
・中国は4回目だが、悪人は今回の西安空港到着時のタクシー運転手だけだ。他の人は皆、親切だった。
・世界中でだがトイレはウォシュレットが欲しい。
・今回の旅行メンバーである私とTの荷物はいつも小さい。特にTは一泊旅行でも小さすぎる荷物であった。
・帰りの飛行機も、行きの飛行機で一緒だった7〜8人の団体ツアー客と一緒だった。首都圏からだと我々と同じ、中2日のツアー客が多いのだろう。彼らが泊まったホテルは外資系の有名ホテルで観光バスと現地ガイドさんが付いたようだ。当然ながら早朝の帰国でも朝食が出されるホテルだった。大手旅行社のツアーだ。
・成田から西安まで行く客は、上海まで飛行機の前部列席(若番)となる。また、上海から西安までも飛行機の前部列席となる。乗換え客とそうでないお客を区別するためだ。西安からも、成田まで行く我々が前列座席へ乗込んだ5分後に後部列席にゾロゾロと国内のみの乗客が乗込んで来た。多分、国内線は便名が違うのだろう。
・お土産は、前述の干し葡萄、楊貴妃が好きだったというライチ入りのチョコレート(不味い)、ゴマ入りビスケット(粉っぽい)、ビール(Kへのお土産。いつももらっているのでお返し)。便利店で買った薬草入りお酒(養命酒の味)。
・風邪をひいて熱っぽい状態での帰国だった。悔しいが横浜駅まで3500円のリムジンバスを使った。利権側にニッコリされてしまっただろうが楽だ。
・中国からの出発便は、国際便でもペットボトル持込可だった。日本も液体物を持ち込みさせないなどのバカなことを早く止めてほしい。荷物検査機は、液体を成分によって見事に色分けできるのだ。米国からの要請が理由でなく、国内空港で水物・酒類・化粧品を買わせようとする既得権益筋への協力が主な理由だろうとも思える。迷惑で自分勝手な企業努力はして欲しくないものだ。
・西安に古い文書や絵画、兵馬俑以外の陶器は無いようだ。失われたか台北の故宮にあるのだろう。
・今回の旅行は排日デモに遭遇したのが一番の思い出だ。中国の歴史には周辺民族に支配されたことが何度もある。元や金、清は、モンゴル人や満州人の建てた国家だ。日本などは中国を我がものにしようとして、追い払われただけだろう。中国にしてみれば迷惑な話だろうが、戦後六十数年経っているのでそろそろ終わりにしてもらいたいものだ。両国の国交のが始まった1800年前の卑弥呼の時代から、戦後の64年間は1/30以上を占めている。
・私は、陳 舜臣の小説18史略や宮城谷昌光の中国歴史小説が好きだ。特に陳 舜臣の小説18史略は何度も読み返した。
・秦は中国を統一する過程で、中国中から人材を求めた。政治家(首相)は秦以外からの登用が普通だった。農工業振興も外人頼みだった。
今の日本に落ち込んでゆく日本を再度豊かな国にする人材がいない。一刻も早く外国人の首相で外国人の官僚機構トップにすべきだろう。
・しゃべる言葉と書く言葉について本文中に書いたが、俗語と標準語もある。我々がしゃべる日本語は俗語である。
下は20104.08.13の日経。アラビア語にもしゃべる言葉と書く言葉があるんだなあ。

    

ツアー日程表

カモ?ト
ラ?ル社のツアーを申し込んのだが、部屋の手配が違っていて、現地で余計な神経と時間、そして不快な思いをした。最初に泊った部屋は従業員用の部屋だった。出発前に手配間違いを指摘して「変更した」との連絡があった事項なので、カモ?社はいい加減な仕事をする会社だと思った。また、泊ったホテルの朝食は700開始だった。当然ながら帰国10/18700過ぎにホテルを出たら飛行機に間に合わないし、さらに出発の2時間前に飛行場へ着けと記載している。カモ?社は二重三重にいい加減な仕事をしていたが、安いだけの中小会社のツアーなので仕方ないのかもしれない。しかし、カモ?社が大きい会社へ飛躍したいのなら、直さなければならない事項である。少なくとも私は2度とカモ?社へツアーを申し込まない。
また含光門近くにあるホテルをカモ?社は三つ星と記載していたが、設備は星が付くような質の良いホテルではない。大手の旅行社に比べ費用が一万円程度安いので、カモ?社のツアーを頼んでしまったが、昔からの大手旅行会社はそれなりの仕事をしていると思った。ただし、私のホテル選択の必須条件はインターネットが無料で使えるというものだった。仕事を一つ持って行かねばならなかったのだ。私の経験では大手旅行社のツアーは古い設備の名門ホテルが多いので、インターネットが使えないか有料が多い。このホテルに宿泊できたことを、ありがたく思わなければいけないのだろう。
帰りに私だけ、上海で一泊追加し一日遅れの同便での帰国を、カモ?社に手配依頼したが、かなわなかった。多分、飛行機が混んでいたのだろう。
首都圏からの直行便を使うと、到着は深夜になるので、我々のようなフリーツアーでも到着時はホテルまでの送迎を頼んだほうが面倒がない。泊ったホテルでは両替が出来なかった。


泊ったホテルの従業員の応対は良かった。
特にホテル側の器機不良でインターネットが繋がらないトラブル発生時には良い対応をしてもらった。仕事が間に合った。


今回の旅行前にしょげることがあったのだが、気分一転元気になった。やはり旅行はいいなあ。

終わり


おまけ



発 音 0:リン 1:イー 2:アール 3:サン 4:スー 5:ウー 6:リウ 7:ヂー 8:バー 9:ジョウ 
10:シー 100:バイ 1000:チエン

戻る

日本 普通の漢数字 二十
大字
もとのかたち
大写
中国 ? ? ? ?
小写 廿
普通の漢数字
大字 正倉院文書 壹 貮 ?? 肆 伍 陸 「うるし」の略字 捌 玖 拾
旧字体 貳 參 漆
新字体 壱 弐 参
inserted by FC2 system